よぴのちずたび

備忘録とか、道歩きの記録とか。

国道340号 押角峠

国道340号線の押角峠に行ってきた。

というより、過去に何度も訪れていたけど、こうしてブログにまとめるのは初めてだな・・・

せっかくなので、今日撮影してきた写真と、押角峠と雄鹿戸隧道にまつわる、歴史のお話を少し。

 

押角(おしかど)峠の雄鹿戸(おしかど)隧道

押角峠は、岩手県宮古市下閉伊郡岩泉町の境目にある峠。押角峠と、宮古市遠野市の境にある立丸峠はそれぞれ国道340号線きっての難所で、特にこの押角峠に隧道(※ずいどう=トンネルのこと。)を穿つ工事は、かなりの難工事であったとされる。なにしろ当時の日本ではまだ長大トンネルを掘削するような技術も確立されていなかったので、つるはしで掘っていくわけである。総延長は580mで、当時の日本では有数の長大さであった。雄鹿戸というのは古い地名で、近年になって押角と呼ばれるようになったようだが、その時期についてははっきりしない。

 

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押角峠に位置する、雄鹿戸隧道(宮古市側)。見た目から古めかしさが伝わってくる。

 

雄鹿戸隧道は、昭和10年(1935年)の竣工。なので、81年間、この峠を見守ってきたことになる。これほど長命でかつ現役当時の姿を残したままというのは、珍しい例である。

  

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2014年7月の雄鹿戸隧道。夏はいい感じに緑が映える。

 

ちなみに、岩手県の現役の道路トンネルで最も古いトンネルは、岩手県釜石市の県道242号線にある鳥ヶ澤隧道(こちらもいずれまとめたいです)。竣工は昭和2年(1927)で、県道242号線は、今の国道45号線の旧線である。

今回のテーマは雄鹿戸隧道なので話を戻すが、岩手県内の現国道で供用されているトンネルで最も古いのは?となると、こちらの雄鹿戸隧道なのである。

雄鹿戸隧道はこの見た目と歴史から、心霊の話がちらほら聞こえてくるが・・・

この隧道の近くには石碑が2つあるが、1つは開通記念碑、もう1つは山神様を祀った石碑であった。慰霊碑は発見されていない。

朝鮮人の強制労働の基本となった法律の制定は昭和13年なので、その前に竣工した昭和10年には朝鮮人労働はあれど、強制労働という考え方は薄かったのでは・・・と思う一方、その数年前に満州事変が発生しているので、全く関係がないとは言い切れないだろう。

いずれにせよ、建設中の大きな事故はなかったようである。

歴史のカギとなる標柱

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雄鹿戸隧道から少し下がった場所にぽつんと立つ標柱。こちらには昭和5年という表記がある。押角道路(2016年4月現在の国道340号線)の改修工事が、昭和5年に始まったとするものだ。当時の土木技術のことを鑑みれば、雄鹿戸隧道の貫通までに5年もの歳月を要したであろうことは、想像に難くない。なお、宮守村という表記は現在の遠野市宮守町のことである。菅原賢助という名前は、遠野市宮守町にある菅原建設株式会社の二代目社長、菅原賢助氏のことであった。

 

菅原建設株式会社 http://sugaken-tono.co.jp/

 

二代目菅原賢助

昭和5年の創業であるにもかかわらず、この深山幽谷のような雄鹿戸という難所の工事を請け負ったということからも、なかなかに敏腕な経営者であったと思われる。菅原建設株式会社のホームページでは、たいへん興味深いお写真が掲載されていた。転載の許可もいただくことができているので、こちらでも使用させていただく。

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二代目 菅原賢助氏。撮影時期は昭和5年ごろの、雄鹿戸隧道の工事の飯場であるとのこと。(菅原建設株式会社 所蔵)

 

ホームページによれば、菅原賢助氏は押角峠で行われた工事に携わったことは間違いないようだ。この写真は昭和5年ごろとのことであるが、雄鹿戸隧道の開通は昭和10年である。先ほど、5年の年月をかけて開通させたという考えを自分なりに想像して結論付けたのだが、菅原建設株式会社様にこの点についても質問をぶつけてみた。

 

Q.この写真は、雄鹿戸隧道が開通した昭和10年ころのものであるか?

A.弊社で請け負った工事は、トンネル南側の取り付け道路のみですので、トンネル開通以前、昭和5年前後の写真かと思われます。(メールより抜粋、転載)

 

菅原建設株式会社様では、雄鹿戸隧道の開通そのものには携わっていなかったようである。しかし、南側(宮古市側)の取り付け道路は体感的には北側(岩泉町側)よりもはるかに地形が急峻であり、かなりの難工事であったと考えられる。

 

では、雄鹿戸隧道はいったい誰が開通させたのだろうか?

 

道隧戸鹿雄

いよいよ、今回のメインターゲットの雄鹿戸隧道である。ここからは少し長い話が続くが、どうかお付き合い願いたい。先ほど坑門の姿はお見せしたが、石レンガ積みの武骨な、昔の意匠を残す美しい門である。扁額も堂々の達筆で右から左に書かれており、左書きが主流になってからは、こうした扁額を拝むことができる場所も少なくなってきている。(前述した鳥ヶ澤隧道も右から左に書く)f:id:Our4k:20160416232102j:plain

「道」の左には「英彦」の字。これは当時の岩手県知事級、石黒英彦翁のものであることを表している。

 

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 2015年撮影の、雄鹿戸隧道の宮古市側坑門。照明が頂点部のみの1か所に連続している形になっており、最近のトンネルに見られる照明の設置様式とは異なる。

 トンネルリストの記載によれば、雄鹿戸隧道のスペックは以下の通り。

「雄鹿戸隧道」

昭和10年(1935)竣工

全長580m 高さ5.2m 幅5.5m

 

記念碑を読む その1

雄鹿戸隧道の宮古市側入り口の左側には、開けた平らな場所がある。その平場の一角から、旧道に伸びていく道があるが、今回はそちらは探索していない。夏場は夏草に没してしまうが、いずれ歩いてみたいとも考えている。平場には2つの石碑が立ち、1つは西塔幸子氏の句が書かれている。西塔幸子氏は女啄木とも呼ばれた歌人であり、岩手県の教師だった。

f:id:Our4k:20160420001200j:plain西塔幸子歌碑。

「九十九折る山路を越えて乗る馬の」は、とても曲がり角が多い山道を、馬に乗って歩いたということであろう。西塔幸子氏は1936年に急逝しており、雄鹿戸隧道の開通は1935年であることから、生前この句を詠んだときは、まだ雄鹿戸隧道が開通していない、旧道のことを詠んだと思われる。

「ゆきなづみつつ」は、「なづむ」が歩きが遅いさまを表している。「ゆきなづむ」で「行き足が遅い」といった風に訳すべきか、「雪道で歩きが遅い」と訳すべきか。あるいは両方かもしれない。「日は暮れにけり」はそのまま。

非常に険しい土地であり、馬の足も遅くなってしまい、ついには日も暮れていく、そんな道だったことが想起される。古典はあまり得意ではないので、もし別の解釈があるという方はお教えいただきたい。

 

記念碑を読む その2

もう一つある記念碑は、隧道の開通記念碑である。

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傍らにたたずむ記念碑。篆書体で右書きにされている。

この内容は、剥落している部分が大きいためわからないことが多いが、どうやら開通の記念碑であることは間違いなさそうだ。以下、碑文をある程度かみ砕いて記載する。なお、<>内は前後の文章やその他の参考資料から推測される文章を入れている。

 

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本県の重要港湾たる宮古港、並びに釜石港方面と、養蚕、畜産(剥落)岩泉町並びに久慈港方面とを連絡する府道岩泉宮古線に介在する雄鹿戸峠は、下閉伊郡<大川村並びに>同郡刈屋村との境界にある。地勢は険峻なため車馬を通すことはほぼ不可能であり、海抜六<四十m?>(剥落)山梁に至る、羊腸のような小道は胸を突き、眼科数百mには滔々たる渓流の声を聴く状態(剥落)<危>険極まりなく交通は甚だ不便であった。そのため県当局は、しばしば本峠の道路改修に努めていたのだが、財(剥落)上積極的に計画を進めることができず、その成功を見ることは難しかった。昭和8年(1933)、政府(剥落)<時局>匡救土木事業を適用されるにあたり、同年臨時の県会議において、本隧道開削工事の(剥落)下閉伊郡岩泉町工藤定治氏がこれを請け負い、同年9月6日に起工した。以来着々とし(剥落)し、遂に昭和10年(1935)5月19日に竣工式を挙げることができた。本隧道開削のため(剥落)<工事>費総額金335,000円あまりであり、そのうち134,100円あまりは国庫より補<助>(剥落)9,500円あまりは県の費用を使い、約31,100円は関係(剥落)刈屋村、大川村、小川村、茂市村が負担した。こうして本隧道はその延長5<80m>(剥落)高さ5mにして、実に本県一の道路隧道となった。ここに、いささか本工事の沿<革を記し永>遠に記念する。

 

昭和10年5月19日 岩手県知事従四位勲三等 石黒英彦

 

(剥落)した者は左記のとおりである。

(剥落)愼吾    道路技術者    留目 巳之松

(剥落)知一    土木技術者補助  及川 雄三

(剥落)節夫    同        小山 秀雄

(剥落)長太    同        三浦 松雄

(剥落)信治    同        大里 實

(剥落)三郎    石工       近藤 兵五郎 刻

 

・・・やはり記念碑には重要な中身が事細かに書かれていた。

現地でこの石碑を目にしたとき、そのあまりの文章の多さに現場で読むことを躊躇してしまったのだが、写真で読み返してみたことにより、上のような内容であることが分かったのである。

海抜640mというのは、雄鹿戸隧道が通る峠部の海抜であると推測される。土木学会附属土木図書館に収蔵されている、「府県道岩泉宮古線道路改良計画図」によれば、峠のおおよそのサミットは600mほど。640mとしたのは、石碑に「六百四」の記載があったこと、この計画図における旧道の最高通過標高が640mであったことが根拠である。

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(公社)土木学会附属土木図書館所蔵 「府県道岩泉宮古線道路改良計画図」

このほかにもこの図からわかることは多い。まず高さや幅員が現在のそれと同じであり、横断図まで用意されている。また峠周辺を眺めると、西側を迂回するルートと、東側を迂回するルートの2つがあったようだ。西側ルートの宮古市側の入り口は確認できているが、西側ルートの岩泉町側および東側ルートは、まったく確認できていない。大正時代の道なのですでに藪に没していると考えられるのだが、よく見るとこの図の東側ルートは、峠を越えて宇津野川を渡っている。すなわち、橋が架かっていたことになる。しかも現道に近いため、探索も不可能ではなさそうだ。

 

話を石碑に戻す。とにかく旧道はとても危険であり、そのための道路改良をしようとしていたが、県も村もお金がなくてなかなか手を出せないでいたのだ。ところが昭和7年(1932)、国の事業のひとつ「時局匡救事業」が実施され、これは昭和9年(1934)まで実施された。これはいわゆる日本版の「ニューディール政策」である。当時の日本は非常に不景気であり、経済の安定化を目指すため、公共財資金を投入し、土木建築を推進する政策をとった。昭和8年にこの事業として雄鹿戸隧道が選ばれ、同年9月6日に起工したものである。竣工は昭和10年(1935)の5月19日であるから、1年8か月と数日で開通していることになる。5年もかかっていたのだろうという推測は、ここでも誤りを裏付けられる形となった。石碑には工事に携わった人の名前も書かれており、石工の名前も残されていた。この石碑に字を穿ったのは、近藤兵五郎という石工であることも分かったのである。そしてなにより、雄鹿戸隧道の開削を行った人の名前も書かれていたのだ。

 

石碑の裏側

石碑の裏側には、以下のような写真があった。

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工定組 工藤定治、工藤定吉、高橋常右衛門、白石貫一

 

「工定組」という会社が、雄鹿戸隧道の開削工事を請け負ったのだ。表側に記載があった工藤定治という人物はここでも登場し、組の名前の次に書かれていることから、当時の工定組の社長が、おそらく工藤定治氏なのであろう。工定組は今は名前を変え、岩泉町に本社のある横屋建設株式会社(横屋手しごとや)となっているようである。果たしてここに雄鹿戸隧道の開削に携わった工藤定治氏が居たのかはまだ定かではないが、いずれ確認が取れれば、改めて更新したい。

 

当時と現在と

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(公社)土木学会附属土木図書館所蔵 「雄鹿戸隧道南口」

当時の雄鹿戸隧道。今も変わらない形で峠を見守っている。

 

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現在の雄鹿戸隧道。古めかしいが、年季の入った美しさが見て取れる。

 

81年にわたり押角峠を見守ってきた雄鹿戸隧道だが、現在国道340号線ではバイパス工事が進められており、岩泉線廃線を転用した新押角トンネルの建設が進んでいるようである。開通は2020年であり、その後は特段訪れる人もいない旧道になってしまうだろう。あと4年。85年目に雄鹿戸隧道は役目を終えることとなる。

 

雄鹿戸隧道が現役でいられるのは残りわずか。一度眺めに行ってみてはどうだろうか。心霊あらたかなスポットというよりは、僕はこの隧道が持つ歴史に圧倒され、ただただ頭が下がる思いである。

 

余談

本レポートに登場した「鳥ヶ澤隧道」であるが、昭和2年(1927)の竣工である。県内最古の隧道として記録されているが、この隧道に比肩する隧道が、宮古市新里村に存在することを調査中に知った。

その隧道の名前は「タンジキトンネル」。資料によれば、昭和3年(1928)の竣工とのこと。ところがこの隧道、いくら検索してもふわふわ浮いた曖昧な情報しか出てこない。

手に入れた情報としては、市道丹敷線にあるトンネルであるということ。そして新里村の丹敷という地名は、今の蟇目第9地割に存在するということまでだ。しかし地図を眺めてもトンネルらしきものは、作見内隧道(旧新里村宮古市との境界)しか見当たらない。の割には、この丹敷(タンジキ)トンネル、詳細なスペックまで記載されているのである。

丹敷(タンジキ)トンネル

昭和3年(1928)竣工

全長51m 幅5.5m 高さ4.4m

しばらくこのトンネルの正体を追うことになりそうだ・・・

ところでこれ隧道じゃなくてトンネルなのかな